私たちの「常識」は、世界から見れば「非常識」かもしれません。今回は、古代エジプトのミイラ作りを切り口に、世界中の多様な埋葬儀礼と、そこに隠された人々の死生観を深く掘り下げていきます。この話は、ただの歴史や文化論に留まりません。最終的には、情報化社会に生きる私たち現代人が「生きながらミイラになっている」という、ドキッとするような鋭い問いにたどり着きます。自分の生き方を見つめ直す、知的な冒険に出かけましょう。
【見どころ5段階評価】
- 世界の多様な埋葬儀礼の面白さ:★★★★★
- ミイラとピラミッドに込められた真の意味:★★★★☆
- 現代社会への鋭い洞察とメッセージ性:★★★★★
世界はこんなにも違う!驚きの埋葬儀礼
人が亡くなった時に葬る「埋葬儀礼」。これはネアンデルタール人の時代から続く、人類に共通の文化です。しかし、驚くべきことにその形式は文化によって全く異なります。まるで、人類は皆言葉を話すけれど、その言語は全く違うのと同じように。
この多様性こそが、人間の文化の面白さであり、奥深さの証明と言えるでしょう。
火葬は少数派?文化の違いが外交問題に発展した話
日本では亡くなった方を火葬するのが一般的ですが、世界的に見ると実は少数派に属します。数年前、日本で亡くなったイランの方が誤って火葬され、イラン大使館から厳しい抗議が来るという外交問題にまで発展しました。イスラム教が主流のイランでは、火葬は最大の禁忌なのです。
西洋でも「火葬は残酷だ」と感じる人は少なくありません。私たちが当たり前だと思っていることが、一歩外に出れば全く通用しない。この事実は、固定観念に揺さぶりをかけてくれますね。
豆知識:エンバーミングとは?
海外では、遺体を長距離輸送する際に「エンバーミング」という防腐処置が法律で義務付けられていることがあります。これは遺体を消毒・保存し、修復する専門技術で、アメリカなどでは大学に専門学科があるほど確立された職業です。日本ではあまり馴染みがありませんが、国際的な遺体の搬送には不可欠な処置なのです。
鳥や魚に食べさせる?チベットとネパールの独特な死生観
目を転じてアジアに目を向けると、さらに驚くべき埋葬方法が存在します。
- 鳥葬(ちょうそう):チベットやブータンの一部では、遺体を鳥が食べやすいように処理し、自然に還す鳥葬が行われます。
- 水葬(すいそう):ネパールの一部では、火葬した後の灰を小麦粉と混ぜて団子にし、川に流します。それを魚が食べることで、目の前で輪廻転生が繰り広げられると考えるのです。
これらの儀礼は、日本人から見れば衝撃的かもしれません。しかし、それぞれの文化には独自の死生観や自然観が根付いており、どちらが優れているという話ではないのです。むしろ、自分の文化を絶対視せず、他者の価値観を尊重することの大切さを教えてくれます。
死体は「モノ」じゃない!見る人で変わるその意味
さて、埋葬儀礼を考える上で欠かせないのが「死体」をどう捉えるか、という視点です。実は、「死体」というものは客観的な存在ではありません。見る人の立場によって、その意味は180度変わってしまうのです。
赤の他人か、愛する家族か
例えば、道端に人が倒れていたとします。それが全くの赤の他人であれば、多くの人は「嫌なものを見た」と遠ざかるかもしれません。しかし、もしそれが自分の親や子ども、恋人だったらどうでしょう?迷わず駆け寄り、抱きしめ、声をかけるはずです。
物理的には同じ「死体」であるにもかかわらず、私たちの行動は全く異なります。これは、親しい間柄の人、いわば「二人称」の相手にとって、その死はまだ完全な「死」ではないことを示唆しています。そこにはまだ、生前の人間関係が強く作用しているのです。
日本の死者は「世間」から追放される?
この点で、日本の死生観は非常に特徴的です。日本では、人が死ぬと「この世」や「世間」といった共同体のメンバーシップを失う、と考えられます。
その象徴が「戒名(かいみょう)」です。戒名をもらうことで、生前の名前(俗名)とは別の存在になり、「あの世」の住人として扱われます。だから、日本の墓地から出てくるのは、肉体を持つゾンビやドラキュラではなく、足のない「幽霊」なのです。
豆知識:「村八分」に残された二分とは?
共同体からの追放を意味する「村八分」。なぜ「十分」ではなく「八分」なのでしょうか。実は、残りの「二分」は付き合いを続けることになっていました。それは「火事」と「葬式」です。どんな関係であれ、人の生き死にに関わる重大な出来事だけは、共同体全体で協力するという暗黙のルールがあったのです。
このように、死者を共同体から切り離し、できるだけ早く消滅させる(火葬する)のが、現代日本のスタイルと言えるでしょう。だからこそ、遺体をそのまま保存する「ミイラ」という文化が、私たちには理解しがたいものに映るのかもしれません。
ミイラとピラミッドに隠された古代エジプト人の願い
では、なぜ古代エジプト人はあれほどまでに徹底してミイラを作り、遺体を保存しようとしたのでしょうか。その答えは、彼らが抱いていた「変わらないもの」への強い憧れにあります。
諸行無常だからこそ「変わらないもの」を求める
『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」や、『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という一節は、この世の全てのものは絶えず変化し、同じ状態に留まることはないという真理を表しています。
私たちの身体も、1年も経てば細胞の多くが入れ替わっています。まさに「ゆく河の流れ」そのものです。このように、はかなく、当てにならない人生だからこそ、人はどこかで「永遠」や「不変」といった安定したものを求めるのではないでしょうか。
ピラミッドは「不変」の象徴
その「不変」への憧れを建築物として表現したのが、ピラミッドです。ピラミッドは単なる王の墓ではありません。
- 極めて安定した形状:あの四角錐の形は、物理的に最も安定した構造の一つです。
- 正確な方位:東西南北を正確に指し示しており、変わらない方位を象徴しています。
- 天体との連携:内部の通路は、建設当時の北極星を指すように設計されていたと言われています。
つまりピラミッドは、時間と共に変化しない絶対的な存在の象徴として作られた、壮大なモニュメントなのです。
そして、この「変わらないもの」への思想が、人間そのものに向けられた時、ミイラが生まれました。変化し、朽ち果てていく肉体を、永遠に保存しようとしたのです。
現代社会は巨大なピラミッド? 生きながらミイラになる私たち
この「不変なものを作る」という文明の営みは、古代エジプトだけのものではありません。実は、現代社会にまで脈々と受け継がれています。
「言葉」や「情報」という名の不変
ユダヤ・キリスト教の世界では、ピラミッドのような巨大建築物の代わりに、「聖書」という「変わらない言葉」が共同体を束ねる中心となりました。聖書の内容は、何百年経っても変わりません。
そして現代。私たちは「情報化社会」に生きています。テレビのニュースやインターネット上のデータは、記録された瞬間から変化しない「固定されたもの」です。
考えてみてください。10年前に録画した映画を今日見ても、内容は一字一句変わりません。変わるのは、それを見ている私たち自身です。同じ映画を10回見れば、その度に感じ方や注目する点が変わっていくはずです。情報そのものは固定されていますが、人間は常に変化し続けているのです。
「生きている」実感、失っていませんか?
ここからが、今回の話の核心です。私たちは、安定や安心を求めるあまり、「危機管理」という言葉に象徴されるように、予測不能なことを極端に嫌うようになりました。「そろそろ身を固めなさい」という言葉も、不安定な状態から安定した状態へ移行することを促すものです。
社会全体が、不変で安定した「情報」というレンガでできた、巨大なピラミッドのようになっている。そして、その中で生きる私たちは、変化し続ける「生」の実感を失い、ルールや情報に縛られて、生きながらミイラになってしまっているのではないか?
これは、非常に重い問いかけです。古代エジプト人が死後にミイラになることを望んだのに対し、私たちは生きているうちから自らを固定化し、動かない存在にしてしまっているのかもしれません。



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