朝ドラ『あんぱん』モデル!アンパンマンを生んだ柳瀬たかしと妻・小松のぶの愛と奇跡の物語

朝ドラ『あんぱん』モデル!アンパンマンを生んだ柳瀬たかしと妻・小松のぶの愛と奇跡の物語 フリートーク

皆さん、こんにちは!2025年春から放送予定のNHK連続テレビ小説『あんぱん』。そのヒロイン・朝田のぶのモデルとなったのが、アンパンマンの作者・柳瀬たかしさんの妻、小松のぶさんです。朝ドラでは今田美桜さん演じる「ハチキンおのぶ」の活躍が描かれますが、実際ののぶさんはどのような女性だったのでしょうか?そして、夫・柳瀬たかしさんとの間には、どんな愛の物語があったのでしょう?もしかしたら、のぶさんがいなければ、あのアンパンマンも生まれなかったかもしれません。今回は、波乱万丈ながらも愛に満ちた、小松のぶさんの生涯に迫ります。

お嬢様から母子家庭へ、そして「いだてん小町」

小松のぶさんは1918年(大正7年)、大阪で4人兄弟の長女として生まれました。夫となる柳瀬たかしさんより一つ年上のお姉さんです。お父様は当時日本一と言われた総合商社・鈴木商店に勤務。幼い頃は毛皮のコートを着るほど裕福な暮らしでしたが、のぶさんが小学校に上がる前にお父様が亡くなり、母子家庭となります。奇しくも、巨大商社だった鈴木商店も、のぶさんが9歳の時に倒産してしまいました。

豆知識:鈴木商店とは? 第一次世界大戦期に急成長し、日本のGNPの1割を売り上げたこともある巨大総合商社。しかし戦後恐慌のあおりを受け、1927年に破綻しました。のぶさんの人生も、時代の大きな波に翻弄されることになります。

大阪の女学校を卒業後、東京で働いていたのぶさん。女学生時代は短距離選手として活躍し、「いだてん小町」の異名をとったそうです。快活で行動的な女性だったことがうかがえますね!

戦争、そして運命の出会い

1939年(昭和14年)、第二次世界大戦が開戦した年、のぶさんは20歳で6歳年上の小松総一郎さんと結婚します。「産めよ増やせよ国のため」と結婚が奨励された時代でした。しかし、夫の総一郎さんは召集され、戦後は病気のため亡くなってしまいます。未亡人となったのぶさんは、お母様と故郷・高知へ戻りました。

そして1946年(昭和21年)、27歳の時に高知新聞社に入社。戦後初採用された女性記者2人のうちの1人でした。数ヶ月後、同じく高知新聞社に入社してきたのが、運命の相手、柳瀬たかしさんです。

高知新聞社での日々

二人が配属されたのは、高知新聞社が創刊する雑誌『月刊高知』の編集部。焼け残ったビルの片隅をベニヤ板で囲った、わずか4人の小さな部署でした。のぶさんは記者として取材・編集・広告取りに奔走し、柳瀬さんは挿絵や広告カットを担当。机を向かい合わせにして働くうちに、二人は自然と惹かれ合っていきます。

ある日、編集長に怒られたのぶさんが「あーあ、焼け酒でも飲みたいけど、お酒飲めないから焼けおしるこだわ!柳瀬さん、付き合って!」と誘い、泣きながらおしるこを食べるのぶさんを見て、柳瀬さんは「この人が好きになってしまった」と感じたそうです。なんとも可愛らしいエピソードですね!キュンキュンします!

東京出張と深まる絆

月刊高知のメンバー4人で東京へ出張することに。当時は列車も超満員で、窓から押し込んでもらうような大移動。食料の白米は高知から持参し、おかずは闇市で調達するという、今では考えられない状況でした。

ある晩、闇市で買ったおでんを皆で食べたところ、翌日、男性陣3人全員が食中毒に!しかし、のぶさんだけは無事でした。なぜなら、ちくわやつみれを男性陣に譲り、自分は大根ばかり食べていたから。食中毒で倒れた3人を、のぶさんは夜も寝ないで看病します。この優しさに、柳瀬さんは完全に心を奪われてしまいました。「惚れてまうやろー!」状態ですね!

出張が延び、回復したのぶさんと柳瀬さんは二人で後片付けや荷物運びをすることに。焼け跡の東京を二人で歩いていると、まるで恋人同士のよう。柳瀬さんは、のぶさんのテキパキとした行動力、快活さ、そして美しさにすっかり魅了されていました。のぶさんは当時、高知新聞社の美人記者として有名だったそうです。

「はちきんおのぶ」と恋のライバル

のぶさんは非常に男勝りな、土佐弁でいう「はちきん」でした。ある時、広告料の支払いを渋る商店主に、手に持っていたハンドバッグを投げつけ「はっきりしてよ!払うの払わないの!」と一喝し、見事代金を回収したという武勇伝も!

はちきんとは? 土佐弁で「男勝りの気の強い女性」を指す言葉。行動力があり、姉御肌で、竹を割ったような性格の女性をイメージさせます。

ところが、このハンドバッグ投げつけ事件が、思わぬ恋の展開を呼びます。偶然その場に居合わせた紳士が、のぶさんの姿を見て一目惚れ! 外国暮らしが長く、日本の大人しい女性に物足りなさを感じていたその紳士は、「僕の理想の女性が見つかった!」と、妹さんを通じてのぶさんに猛アタック。編集室には、その妹さんがお土産を持って足しげく通うようになります。

この紳士と街でばったり会い、顔を赤らめるのぶさん。柳瀬さんに「あの人に求婚されているの」と打ち明けます。突然の恋のライバル出現に、柳瀬さんは動揺!しかし、「いい人らしいじゃないか、結婚すればいい」と、典型的な「モテない男ムーブ」をかましてしまいます…。(柳瀬さん、そこは押さないと!)

雨上がりの夜、運命の一言

このまま終わるかと思いきや、のぶさんは柳瀬さんを見捨てませんでした。後日、取材終わりの帰り道、夏の夕立が上がった遠雷の鳴る夜。のぶさんはポツリと、しかしはっきりと「柳瀬さんの赤ちゃんが産みたい」と言ったのです!

…完全に告ってもらってますね、柳瀬さん!この一言で、柳瀬さんはようやくのぶさんを抱きしめ、キスをしたそうです。やっとか!と、のぶさんも力が抜けちゃいますよね。この時、柳瀬さんは結婚を決意します。

上京、そして貧しくも幸せな結婚生活

ところが、のぶさんの行動は予測不能でした。結婚を決意した矢先、「東京で政治家の秘書になるから、先に行って待ってるわ!」と、さっさと高知新聞社を辞めて上京してしまいます。行動力がすごい!

残された柳瀬さんは仕事に身が入らず、1年後、デザイナーか漫画家になる夢を追って、のぶさんを追いかけ上京。二人はのぶさんの友人宅の子供部屋に無料で下宿させてもらい、事実上の結婚生活をスタートさせます。(結局、二人は正式な結婚式を挙げず、のぶさんは後々まで「結婚式の写真がない」と文句を言っていたとか…)

柳瀬さんは三越の宣伝部に入社。この時デザインした包装紙「花ひらく」の「mitsukoshi」の文字は、柳瀬さんが書いたものだそうです!その後、二人は中目黒のボロアパートへ引っ越し。トイレは屋根に穴が開き、雨の日は傘が必要、階段も板が抜けている…という、ドリフのコントのような家でしたが、眺めも日当たりも良く、近くに商店も揃っていて、「こんな生活を夢見ていたの。とっても幸せよ」とのぶさんは語っていたそうです。貧しくても、二人で支え合う幸せな日々でした。

柳瀬たかし、漫画家への道とのぶの献身

三越で働きながら、内職で漫画を描き始めた柳瀬さん。次第に漫画の収入が本業を上回り、漫画家として独立することを考え始めます。しかし、「本当に食べていけるだろうか…」と悩む柳瀬さんの背中を押したのが、のぶさんでした。「やめちゃいなさいよ!なんとかなるわ。収入がなければ私が働いて食べさせてあげる!」この力強い一言で、柳瀬さんは独立を決意します。昭和28年、34歳の時でした。

独立後、柳瀬さんは漫画だけでなく、作詞、舞台装置、ラジオドラマ脚本、テレビ出演など、「ダサいマルチ人間」と自称するほど多方面で活躍します。しかし、本人は「一流の漫画家」になれないことに葛藤を抱えていました。特に、10歳年下の手塚治虫が「漫画の神様」として大ブレイクしている時代。焦りや劣等感もあったようです。

そんな柳瀬さんを、のぶさんは常に励まし続けました。「あなたは普通の人とちょっと違うところがある。必ずいつか認められます」。そして、家事はもちろん、お金の管理も全て引き受け、柳瀬さんが自由に創作活動に打ち込める環境を整えました。散髪までしてあげることもあったとか!まさに献身的なサポートですね。

名作誕生の陰に

柳瀬さんの代表作の一つ『手のひらを太陽に』は、仕事に悩みうつうつとしていた徹夜明け、ふと懐中電灯を手のひらに当てた時、血潮の赤さに励まされ、歌詞が浮かんだそうです。

また、もう一つの代表作『やさしいライオン』は、急遽依頼されたラジオドラマの代打で、徹夜で書き上げた物語でした。母親代わりの犬(ムクムク)に育てられたライオン(ブルブル)の悲しくも美しい物語には、「正義は立場によって変わる」「現実はハッピーエンドばかりではない」「種を超えた親子の絆」といった、柳瀬さんの戦争体験に基づいた深い哲学が込められていました。このラジオドラマが大ヒットし、絵本化、さらに手塚治虫氏の協力で映画化もされ、柳瀬さんはついに代表作と呼べる作品を手に入れたのです。この時、柳瀬さん51歳、のぶさん52歳でした。

サンリオとの出会い、そして『アンパンマン』

柳瀬さんは、自分で作った詩集を自費出版しようとしていました。そんな時、手を差し伸べてくれたのが、山梨シルクセンター(後のサンリオ)の創業者、辻信太郎社長でした。出版の知識が全くないながらも、この詩集『愛する歌』を出版し、なんと5万部の大ヒットに!

この縁で、柳瀬さんは辻社長に頼み、自分が編集長を務める雑誌『詩とメルヘン』を創刊します。そして同じ年、フレーベル館から依頼されて初めて幼児向けに描いた絵本が、あの『あんぱんまん』(当初はひらがな表記)でした。

不評から国民的ヒーローへ

しかし、今では信じられないことに、『あんぱんまん』は当初、大人たちから大不評でした。「顔を食べさせるなんて残酷」「くだらない」と酷評され、出版社からも「もう描かないで」と言われる始末…。

それでも柳瀬さんは、アンパンマンに何か引っかかるものを感じ、自分が編集長を務める『詩とメルヘン』や『こどもの詩と絵本』で連載を続けます。「誰にも文句は言わせません!」という気概ですね!

柳瀬さんのアンパンマンに込めた思いは深いものでした。「正義の味方は悪者をやっつけるけど、飢えた子供には何もしてくれない」「戦争で正義はひっくり返るのを見た」「本当の正義はかっこいいだけじゃない。自分が傷つくこともある」。だから、アンパンマンは自分の顔を分け与え、愛と勇気だけを友達に、たった一人でも困っている人のために立ち上がるヒーローなのです。

大人の不評とは裏腹に、子供たちはアンパンマンが大好きでした。図書館の絵本はボロボロになり、保育園では「読んで!」とせがまれる日々。そしてついに、1988年(昭和63年)、テレビアニメ放送が開始!当初は視聴率が取れない時間帯でのスタートでしたが、蓋を開ければ大ヒット!アンパンマンブームが巻き起こり、のぶさんの長年の願い「あなたが誰でも知っている人になったら嬉しいわ」がついに叶うのです。この時、柳瀬さん69歳でした。

突然の病魔、そして夫婦の闘い

アンパンマンが大ヒットし、柳瀬さんが多忙を極める中、悲劇が訪れます。1988年の秋、のぶさんが体調不良を訴えます。健康自慢で医者嫌いだったのぶさんは、なかなか病院へ行こうとしませんでした。柳瀬さんも多忙で、強く病院へ行くことを勧められずにいました。ようやく診断を受けた時、告げられたのは「乳がん」。しかも、全身に転移しており、余命は長くて3ヶ月という非情な宣告でした。

「なぜもっと早く病院へ連れて行かなかったのか…」柳瀬さんは激しい後悔に襲われます。のぶさんには本当のことを告げられず、「悪いところは全部取ったから大丈夫」と嘘をつくしかありませんでした。

希望の光と里中満智子さんの助言

絶望の淵にいた柳瀬さんを救ったのは、漫画家の里中満智子さんでした。会議で憔悴しきった柳瀬さんの様子に気づき、声をかけてくれたのです。自身もがんサバイバーだった里中さんは、食事療法や丸山ワクチンについて教え、「奥様きっと治りますよ。元気出して!」と励ましてくれました。この言葉に、柳瀬さんは希望を見出します。

主治医は効果に懐疑的でしたが、柳瀬さんは必死に頼み込み、丸山ワクチンの投与を開始。すると奇跡が起こります。入院から1ヶ月でのぶさんは歩けるようになり、年明けには退院できるまでに回復したのです!体重も30kgから55kgまで戻り、「嫌だわ、こんなデブになっちゃって」と言いながらも喜ぶのぶさんの姿に、柳瀬さんは「奇跡ってあるんだ!」と涙しました。

繰り返される治療と、隠された事実

しかし、がんは消えたわけではありませんでした。抗がん剤治療の副作用(吐き気、脱毛)に苦しみながらも、のぶさんは気丈に振る舞います。体力が落ちれば抗がん剤を中断し、回復したら再開するという辛い治療を繰り返しながらも、一時は好きだった山歩きを再開できるまでに回復しました。

ところが、柳瀬さんには言えない、もう一つの辛い事実がありました。回復したことで安心してしまったのぶさんは、柳瀬さんに内緒で丸山ワクチンの注射をやめてしまっていたのです。「悪いところは全部切り取った」と信じていたのぶさんにとって、毎日の注射は負担だったのでしょう。多忙だった柳瀬さんは、そのことに全く気づけませんでした。

最期の輝きと、永遠の別れ

病状が悪化していく中でも、のぶさんは柳瀬さんの活躍を心から喜んでいました。1991年(平成3年)、柳瀬さんが勲四等瑞宝章を受章した際には、一緒に皇居へ。園遊会では、美智子様(当時)から声をかけられ、子供のようにはしゃいでいたそうです。

柳瀬さんは、のぶさんを喜ばせたい一心で、以前好評だったパーティーを再び計画します。「アンパンマン20周年 未来を祝う会」。のぶさんの友人も全員招待し、盛大に行う予定でした。しかし、開催当日、のぶさんは両足の激痛で歩けなくなり、車椅子での出席を拒否。主役不在のままパーティーは開かれました。

1993年(平成5年)11月、のぶさんの容態はさらに悪化し、緊急入院。柳瀬さんは毎日病院へ通い、そばに付き添いました。輸血で一時的に元気を取り戻したのぶさんは、「アンパンマンのおじさんとして有名になって嬉しい」と語り、看護師さんたちにアンパンマングッズを配っていました。

「これ以上生きるとあなたに迷惑かけるから」「私どうも肝臓に来ているみたいね」と、自分の最期を悟っているかのような言葉も。そして、「私の命はあなたにあげるわ。長く生きていい仕事をしてね」と柳瀬さんに告げました。

入院して数日後、柳瀬さんが体を拭いてあげると、のぶさんは「ああ、天国にいるみたい」と言って、穏やかに微笑みました。柳瀬さんは、その笑顔を生涯忘れることはなかったそうです。

そして、1993年11月22日。前日までテレビを見てはしゃいでいたのぶさんは、意識不明に陥ります。柳瀬さんの懸命な呼びかけもむなしく、午後4時過ぎ、苦しむことなく、安らかに息を引き取りました。享年75歳。「いい夫婦の日」の旅立ちでした。

のぶのいない世界で

最愛の妻を失い、茫然自失となった柳瀬さん。夜も眠れず、体重も激減しましたが、容赦なく仕事はやってきます。悲しみの中で仕事をこなすうち、柳瀬さんを救ってくれたのは、やはりアンパンマンでした。「アンパンマンがいてよかったわね」という、のぶさんの声が聞こえるようだったと言います。

「のぶちゃんからもらった命をちゃんと生きなければ」。そう決意した柳瀬さんは、のぶさんが願ったように、「誰でも知っている人」になるべく、さらに精力的に活動します。私財を投じて故郷・高知にアンパンマンミュージアムを建設。東日本大震災の際には、ラジオで流れる『アンパンマンのマーチ』が被災地の人々を勇気づけていると聞き、生涯現役を貫くことを決意しました。

のぶさんが亡くなってから20年後の2013年10月13日、柳瀬たかしさんは94歳で生涯を閉じます。お墓はアンパンマンミュージアムの近く、のぶさんと共に眠っています。きっと今も、アンパンマンと遊ぶ子供たちを、優しい笑顔で見守っていることでしょう。

愛と勇気の物語は続く

朝ドラ『あんぱん』のモデル、小松のぶさんの生涯は、まさに波乱万丈。しかし、そこには常に夫・柳瀬たかしさんへの深い愛と、困難に立ち向かう「はちきん」の強さがありました。そして、のぶさんの支えがあったからこそ、アンパンマンという、世代を超えて愛されるヒーローが生まれたのです。

今回の元となった解説動画は、そんなのぶさんの魅力的な人柄、柳瀬さんとの心温まるエピソード、そしてアンパンマン誕生の知られざる裏側を、感動的に伝えてくれます。動画を観れば、朝ドラ『あんぱん』がより一層楽しみになること間違いなしです!

のぶさんと柳瀬さんの物語は、愛と勇気、そして決して諦めない心の大切さを教えてくれます。アンパンマンが私たちに元気をくれるように、二人の生き様もまた、私たちの背中をそっと押してくれるのではないでしょうか。

この動画(解説)を観るべき? 評価:

  • のぶさんの人物像理解度:★★★★★ – 快活で愛情深い「はちきんおのぶ」の魅力が満載です。
  • アンパンマン誕生秘話の深掘り:★★★★☆ – 誕生からヒットまでの道のり、夫妻の関わりがよく分かります。
  • 夫婦愛への感動度:★★★★★ – 支え合い、励まし合い、最期まで続いた二人の絆に涙腺崩壊必至です。

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